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『セレナーデ』(英:''Serenade'')は、ジョージ・バランシンがピョートル・チャイコフスキーの『弦楽セレナード ハ長調 作品48』を使って1934年に振り付けた1幕のバレエ作品である。バランシンが渡米後の初作品として振り付けたもので、彼の代表作として人気が高く、ニューヨーク・シティ・バレエ団の恒久レパートリーに入っている他、各国のバレエ団で上演されている〔『オックスフォード バレエダンス辞典』265頁。〕〔『バランシン伝』182頁。〕〔『バレエ音楽百科』183頁。〕。 == 作品について == 1933年末にスクール・オヴ・アメリカン・バレエが設立され、1934年1月1日には30人の入学志望者の中からオーディションで25人(ただし、男子生徒はわずかに3人だった)が選ばれて正式に開校した〔『オックスフォード バレエダンス辞典』29-30頁。〕〔『バランシン伝』178-180頁。〕。バランシンは、上級クラスのレッスン用にこの作品を構想した。彼の目的は、生徒たちが学んでいる各種の基本のパ(バレエのステップ)が、振付家の手腕によって単なるエクササイズからどのように作品として変貌を遂げるかを実感させることにあった〔『バランシン伝』182-183頁。〕。 バランシンはチャイコフスキーの『弦楽セレナード ハ長調 作品48』を使って作品の振付を開始した。振付を始めた晩のクラスには、17人の生徒が出席した。(そのため、作品の幕開けには17人の女性ダンサーが舞台上に登場することになった)〔次の晩のクラスには9人、その次の晩には生徒の数はさらに減少して6人になったが、バランシンはそのとき出席していた生徒の数に合わせて振付を進めていった〔。男子生徒がクラスに来始めると、彼らの出番も作ることにした。作品のある部分で、女性ダンサーが舞台袖に走り去って素早く退場する場面で、1人の少女が転倒して泣き出してしまった。また別の晩には、1人が遅刻して教室に駆け込んできた。バランシンは、この2つのアクシデントを取り入れ、作品を組み立てていった〔〔『バレエ101物語』91頁。〕〔『バレエ・ダンスの饗宴』133頁。〕。 完成した作品の初演は、1934年6月10日にニューヨーク州ホワイト・プレインズ郊外にあるフェリックス・ウォーバーグ(バランシンの後援者の1人、エドワード・ウォーバーグの父)の私邸でスクール・オヴ・アメリカン・バレエの生徒たちの出演により行われた〔〔『バランシン伝』185頁。〕〔『バレエの鑑賞入門』81頁では、「6月9日」初演としている。〕。このときは限られた招待客のみに披露され、正式に上演されたのは同年の12月8日、コネチカット州ハートフォードにあるエイヴリー記念劇場だった〔〔この日付も文献によって差異があり、『バレエ・ダンスの饗宴』133頁では「1934年9月9日、ニューヨーク」としている。〕。1935年3月1日には、スクール・オヴ・アメリカン・バレエの卒業生が結成したプロのバレエ団、アメリカン・バレエによって上演されている〔〔『バランシン伝』186頁。〕。この時は、バランシンの旧作2作と『セレナーデ』を含む新作4作を上演した〔。 アメリカン・バレエとバランシンの新作は、一般の観客にも評論家たちにも大した評判は得られなかった〔。当時の著名な舞踊評論家ジェームズ・マーティン(ニューヨーク・タイムズで舞踊評論を執筆していた)は、「恐ろしく内実の乏しい作品」とまで評していた〔『バランシン伝』187頁。〕。その後評価は上がり、モダン・ダンスのパイオニアの一人として知られるマーサ・グレアムは「思いのままに複雑さを操っていくことができる真の巨匠だけが持つ単純さ」と称賛した〔『バランシン伝』183-184頁。〕。バランシン自身も、1959年にニューヨーク・シティ・バレエ団がこの作品を上演した際に「25年も前の作品にしては、今観ても悪くなかった」と発言を残している〔『バランシン伝』184頁。〕。『セレナーデ』はバランシンにとって原型ともいえる作品で、折に触れバランシンはこの作品の改訂を試み、幾人かの役を統合してみたり、一つの役を拡張したり、いろいろな要素を付け加えたりしていた〔。後に世界各国のバレエ団がこの作品をレパートリーとして取り上げ、その数は50以上に上っている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セレナーデ (バレエ)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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